時代の風




○技術家の地平(3) 〜 技術家はどこから来たのか、どこへ行くのか 〜

1.ポール・ゴーギャンの叫び
ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)を訪れると、必ず人々が座り込み、
その前で何か哲学的な思索に耽り、人生の来し方行く末に思いを馳せる画がある。
ポール・ゴーギャン(1848−1903)の遺作「われわれはどこから来たのか、われわれは何者なのか、われわれはどこへ行くのか」
(D’ou venons nous? Que sommes nous? Ou allons nous?)がそれである。

あまりにも有名なこの画の前に佇むと圧倒される。確かにこれは人の意表を衝いた作品である。
ヒト、動物、鳥類、虫、植物、ありとあらゆる生物が画面のそこかしこに陣取っている図柄は、異常感すら与える。
中央にはアダムとイヴのイヴらしき女性がまさに禁断の果実であるりんごに手をかけている様子が描かれている。
その一方、左中心にはシバ神ともみまごう東洋的な神が描かれている。描像されている人物は、すべてゴーギャンが愛したタヒチの人々だろうか。

なぜ、ゴーギャンはこのタイトルのもとに、この世の生物いっぱいを登場させたのだろうか、という新鮮な訴えをつい感じとってしまう。
大きな画である。だが、それでも描き足りないといわんばかりにゴーギャンの問いが見る者に迫ってくる。
まさしく、「オマエは誰だ?」「なぜ存在するのだ?」というゴーギャンのこころの叫びをまともに受けてしまうから不思議だ。
鑑賞し終わると疲れてしまう。こんな画には、ほかでは出会えない。
ゴーギャンのこの画は、少なくともそれを見た人々に自分の「人生」を考えるきっかけを与えてくれる。
彼の激しい迫りかたに接することによって、われわれは自ずと自分自身の内なるこころの叫びを感じ取ってしまう。

「人はどこからきて、今どうあり、これからどうなるか」

ゴーギャンのような芸術家は、ある意味、人間社会における病人である。
普通の人々がまだ病に罹らないうちに、その透徹した真・善・美に対する目を通して社会の病巣を先取りしてくれるのが芸術家である、といってもよい。
ゴーギャンは20世紀の初頭において、早くも人間の存在に関わる病を先取りし、そしてそれに警鐘を打ち鳴らす作品を残しておいてくれたといえよう。
そして、ゴーギャンの先取りした病は、極めて的確であったことが21世紀に入った今日証明されつつある。
すなわち、人々はアイデンティティを見失い、自己の拠るべき所を見出しかねている。

禅の修業の手引書に「十牛図」というものがある。中国は北宋時代、廓庵禅師によって作られたといわれている。
十種の絵があり、牛とそれを追う牧人との関係によって、人間がたどりつくべき最高の境地への道を示したものだ。
十牛図の最後の絵は、牧人が町に帰って人に救いの手を差し伸べるという意味らしい。報いを望まないで、やるべきことをやる。
右手のすることを左手に知らせず(「隻手の音声を聞け」;白隠禅師)、ただ無心に働く。それを禅では無用の妙用と呼んでいる。

ゴーギャンの叫びに身震いを感じた時、なぜか禅の世界のこの話を思い出していた。
そしてこう思った。われわれがわれわれ自身と「無用の妙用」とを対置させる立場から脱却し、
「無用の妙用」になりきることこそがわれわれ自身だと感じ得た時、われわれは鈴木大拙がいう「真人」となるのではないか。
そしてそれは、ゴーギャンの叫びに呼応するわれわれの一つの生きかたではないか。

われわれは「考える」。「かんがえ」は古語辞典によれば、「カムカヘ」であり、原義は「カ」を向き合わせることだった。
森本哲郎著「ぼくの哲学日記」(集英社刊、1999年)によれば、次の通りである。

「カ」とはアリカ、スミカなどという「カ」、すなわち「所、点」を意味している。
カムカヘとは、「二つの物事をつき合わせて、その合否を調べただす」作業であり、
(中略)
「カ」とはたんに所(処)だけではなく、やがて他者すべてにひろがり、
客体として意識されるもの全体をふくむようになっていったのではあるまいか。
(中略)
「カ」は「彼」、すなわち「遠いものを指し示す語」でもあり、ムカフ(向かう)はムカヘ(迎え)へと通じている。
そうした由来をたどると、「考える」という日本語は、対象を志向する心の作用とともに、
外界を受容する働きの意味も併せ持っており、哲学における「認識論」を暗示していることになろう。
そう、「考える」ことは対象を志向するとともに外界を受容する働きだといえる。
すなわち、日本語において「考える」とは心の内と外とを対置させないことであり、自分と他者を一元化する作用であった。
禅における「無用の妙用」は、日本語の「考える」においてすでに十分認識されていたことが判明する。


さて、私の問いは技術に向かって発せられる。技術を取り扱う者において、「われわれは何者なのか」、われわれは「真人」たりうるか。
「考える」という行為がそれらの問いに答えをもたらす作用たり得るであろうか。
ゴーギャンの予見した病巣は、技術を取り巻く世界においても例外ではない。
われわれが自分のアイデンティティを見失わないためにも、以下でそれらについて“考えて”みたい。

2.状況の技術あるいは場の技術
技術家は技術者とは違う、いや違っていてもらいたい。
技術の学徒から出発し、実学としての技術を駆使した技術者を経て、技術者を突き抜けた向こう側に見えてくるものが技術家であってほしい。

20世紀は、あらゆる分野において技術がエクスプロージョンした世紀であった。その意味では、技術者が多く輩出した時でもある。
だが、その一方で技術家が姿を消した世紀でもあった。
それは、20世紀の技術が“個”の技術、すなわち機能の技術ばかりに偏重し、“社会”に対する技術が遅れを取ったところに原因がある。
放送大学教授である森谷正規先生の著書「21世紀の技術と社会」(朝日選書刊、1999年)に拠りながら、これを説明しよう。
森谷先生によれば、20世紀は「家庭」「産業」に向けられた技術が爆発した時代である一方、「社会」への技術が取り残されてきた。
交通は1960年代までは高速化、大型化に向けて大きく進んだが、70年代には成熟した。
その後は「環境問題、都市過密化問題などに対応すべき技術が求められたはずなのだが、その新たな方向への進展ははかばかしくなかった。
したがって社会問題の激化がくいとめられなかった」(同書)のである。
社会に対する技術の遅れは、「20世紀の影の部分」(同書)であり、個人生活や物質生活が豊かになったとはいえ、社会生活には厳しい犠牲が生じてきている。
つまり、環境問題、廃棄物処理問題、都市交通問題(渋滞、通勤)、都市景観・アメニティ問題等々である。
これらの積み残し問題は、換言すれば技術の個的発展に対して、
技術進展に関わる“仕組み”あるいは“制度”または技術進展を支える“社会的制度基盤”が遅れを取った結果であるといえはしないか。
前掲書において、森谷先生はこういう。

「社会」に技術を向けるには、政治の果たす役割が非常に大きい。
21世紀の技術進展に関しては技術と政治の問題を真剣に考えないといけない。
民生、産業分野の技術がほとんどである日本では、技術と政治は無縁に近いものと見られていただろう。
だが、社会問題の解決に向けて努力するのは、そしてそのために技術を活かすのは、政治の役割である。
(同書239ページ)

「場の技術」あるいは「状況の技術」ということばがある。
それは「個の技術」とは異なる視点からアプローチする技術であり、個の技術が単体のモノの機能向上を追い求めていくものであるのに対し、
場あるいは状況の技術とは先述した「仕組み」「制度」「基盤」つくりを対象とする技術である。

技術家が技術者を突き抜けた向こう側に見える世界を取り扱う人であるとするならば、
この「場の技術」あるいは「状況の技術」をこそ技術家の技術とすべきである。

すなわち、技術者とは「個の技術」「モノの技術」あるいは「機能の技術」に専念することが専門性であってよい一方、
いやしくも技術家を称号しようとするならば、技術者が進化させる技術を支える基盤をつくることを専門性としたいものだ。

ここに、技術者と技術家について次の図式を定着させることが可能となる。
T技術者;個の技術、性能の技術、「モノ」(ハード)を対象
U技術家;場の技術、状況の技術、「コト」(ソフト)を対象
これを学問的に分岐するならば、技術者は専門性である工学理論あるいはその基礎である要素還元主義、
合理主義の上に立脚していれば目的を達成することはできよう。
他方、技術家の場合には、それだけではすまない。
なぜなら、技術家に対して状況の技術が望まれる以上、技術家が対象とするのは社会、人間、自然、生物であり、
その背後にはウエブ状に脈絡する利害関係調整を初めとするさまざまな“関係性デザイン”が潜んでいるからである。

つまり、技術家が対象とせざるをえないのは、“複雑系”の技術である。
したがって、技術家には複合的な専門性とそれらを統合して用いることが出来る全一性の双方が要求される。
ここに技術家が「カムカヘ」る必要が生じ、「真人」を目指す鍛錬の必要性が顕かにされるわけである。
これを私は「知を統べる技術」と呼んでいる。

3.技術家と政治
周知の通り、2001年9月11日ニューヨークで起きた飛行機自爆テロにより、世界貿易センターのツインビルディングは崩壊した。
アメリカ土木学会[American Society of Civil Engineers ; ASCE]はただちにこれに対してアクションを起こした。
翌10月には[「重要社会資本の災害対応に関わる議案」[Critical Infrastructure Response Initiative ; CIRI]を可決し、
同年11月1日号の”Leadership and Management in engineering”において、
Vulnerability and Protection of Infrastructure Systems: The State of the Art”(社会資本システムの攻撃の受け易さ及び防御)という特集を組んだ。
一方、ASCEの日本版といってよい日本の土木学会[Japan society of civil Engineers ; JSCE]となるとどうだろう。
政治に関わる発信はいっさい実施していないというのが実状ではないだろうか。
たとえば、最近だけでも社会資本が国民の社会生活に影響を及ぼす事件や事故は数多くある。
大きなニュースだけでも
T.長野県田中知事による「脱ダム宣言」
U.兵庫県明石市「歩道橋将棋倒し事件」
V.小田急「高架橋判決」
がある。
また、最も新しいところでは
W.首都高「橋脚劣化現象」
を取り上げることができよう。

以上のどの事故あるいは事件・現象に対しても、日本の土木学会が学会としての何らかの意志を表明する、
または「宣言」あるいは「議決」を行った、という事実を浅学のせいか風聞しない。
土木といえば、技術の中でももっとも社会との干渉が頻繁な、そして何より元々が「市民工学」に由来する学問であり、技術である。
その本山である土木学会がこれだけの社会事象に対して沈黙を守るには何かわけでもあるのだろうか。
それとも、土木学会は自ら社会に対する影響や責任あるいは存在の矜持を放棄してしまっているのだろうか。
もしも、技術家が土木学会の構成員であるならば、沈黙を打破して社会に向かって技術家の視座から「土木の主張」を展開するべきではないか。
政治あるいは社会から距離を置き、経済や産業とだけ密接な連携を保持してきた結果、20世紀の「社会に対する技術」が遅れを取ってしまったことは先に見てきたとおりである。
この反省が謙虚になされるならば、技術家たるもの、「状況の技術」「場の技術」の具現者としておおいに社会に対して主張を展開すべき時期が到来しているのではないだろうか。
もう一つ、アメリカ土木学会と政治との関係を示す事例を紹介しよう。
それはアメリカ土木学会が会員である土木技術者たちに要請している啓蒙活動のことである。
それは、社会資本整備に関連する法律を制定する国会議員や立法機関の職員に、土木技術者が正しい情報や適切な知識を、積極的に提供するための自発的な活動である。
土木技術者たちの会合や会議などに、議員や職員を招き情報を提供したり、土木技術者の意向を伝えることや、議員の事務所を訪問することを勧めている。
もちろん議会や議員から要請があれば、できるだけ豊富な資料や適切なアドバイスを提供する。
そうすることによって、より適切な法律や政策の決定を支援しているのだ。

さらに、議員や立法機関の職員だけでなく、一般の人たちへのアプローチやコミュニケーションも行っている。
(中略)
地域住民の集まりや有権者たちの会合に顔を出し、社会資本の整備や維持管理の大切さを理解してもらうのだ。
そうした啓蒙活動を通じて得た住民や有権者の声を、議員や職員に伝えることも、土木技術者の重要な役割のひとつにしている。

(佐藤正規著「あなたも公共事業が好きになる」相模書房刊;2002年より)

このように、アメリカ土木学会では土木技術者は専門的な工学分野ばかりでなく、
法律の制定や公共事業に関わる政策の決定に影響を及ぼすような知識や情報を提供し、政治に対しても積極的に関与し、主張を展開しているのである。
私は、アメリカ土木学会のこのような啓蒙活動の先端に、これからの技術家が目指すべき方途を見出す。
土木は社会活動と切っても切れない縁を持つ学問であり、技術である。民生や産業におけるそれとは一線を画する。
われわれが「考える」ことは、直接・間接に社会生活に影響を与えつづける。人間の生活のありようを変えてしまう。
だから、間違いは許されない。無謬であるためには、出来る限り「場」に飛びこみ、「状況」を形成する必要がある。
それが政治に対して接近していくことであるならば、躊躇は悪である。
市民の生活を安寧することを目的に、かつ20世紀が取り残した「社会の技術」を進展させるために、「無用の妙用」を作用させることが技術家の復活となるのではないか。
それがゴーギャン発「われわれはどこへ行くのか」に対する技術家としての回答であるようにも思う。





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